【インドネシアでの戦時性暴力】 戦時中、日本軍が占領していたインドネシアでは現地の女性たちが「慰安婦」にされた。また、強姦されたケースもある。今なお、心の傷が癒えない戦時性暴力の被害者が取材に応じた。
証言する女性。
「今でも苦しい。思い出したら泣いてしまいます。(泣いている)/すべて破壊された。日本のために働いていたときに」
娘や孫には、そのことをこれからも話さない。
別の女性。15歳の時、学校に入れると誘われて連れてこられた。「昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいなかった。よく殴って殺していた。逃げられなかった。どこに行けばいいのか。死にたいほど後悔した。学校に入れるといってきてしまったこと。」
当時のことを聞いたら、言葉に詰まってしまった。
メディカルチェックについて
「女性は7人で、皆新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と日本人の医者です。皆新品だと、役人が言いました。全員が処女だったということです。」
日本軍は、性病と縁のないインドネシアの症状たちに目を付けた。
陣中日誌には、慰安所を利用する際の細かい規定が書かれている/事務所ニテ代金を支払い、キップヲ受取女にその切符を渡す/「入口左側事務所ニテ代金ヲ支払ヒ切符ヲ受取リ集合所ニテ女ニ切符ヲ渡ス」
画面、その隣の項目 「注意 入口以外ヨリ勝手ニ遊バザル(画面切れ)言語等不可解ノタメ暴行セザルヲ(画面切れ)」「使用時間 兵 自九時 至一六時 下士官 一六00 二一 00」
関連:「突撃一番」
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3864.html
(どんな切符だったか?)スハルティさん「部屋に入るための切符でした」
「切符の数で、何人相手にしたかわかったのです」
取材同行のオランダ人ジャーナリスト ヤンセンさん インドネシア在住
(インタビュー中に女性の手を握ったり配慮されていた。取材の様子は、映画にもなったが日本では未公開)
ヤンセンさん 「慰安婦というのは、作り上げられた制度なんです。私が調べた全てのケースを見ても、その制度が女性に何をもたらし、衝撃を与えたかを説明できます。それは紛争地域での性暴力であり、戦争犯罪そのものです」
中曽根さんの『終わりなき海軍』。これについての2007年の日本外国特派員協会での会見の動画「彼らが集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」
関連:中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が
http://lite-ra.com/2014/08/post-413.html
「しかしその後、新たな資料が見つかった」バリクパパンで見つかった「海軍航空基地第2設営班資料」、そこに中曽根の名前。
スハルティさん(バリクパパンの慰安所にいた)「私が何を経験したのかわかってほしいです。私見たいみたいな目に合わないように。気を付けてくださいね。」/「新しい資料が見つかって以降、中曽根氏は沈黙を守っている」
「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。
「報道特集では、中曽根氏に質問書を送った」
「貴殿が主計長として設置に関わった「慰安所」は、単なる碁を打つなどのための娯楽施設だったのでしょうか。現在の見解をご教示願います」など、5項目
2007年外国特派員協会での会見 中曽根氏「ま、私の考えでは、やはりああいう慰安婦というような事実はあったと。そういうことも聞いております。また、それにまつわるどういう状態であったかという話も聞いております」
2007年外国特派員協会で中曽根氏「やっぱり事実は事実なのであって、正直に事実があるとして認めて、そして人権を侵したようなことがあるとすれば、それは謝るべき性格のものである。そういうものにたじろいではいけないと、私は政治家として思っている次第であります」
報道特集の質問書に対して、おととい中曽根事務所は、電話で次のように答えた。「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」
画面に写った中曽根氏への質問状のその他の4項目。「二 防衛省防衛研究所所蔵の「海軍航空第二設営班資料」に、『主計長の取計でドキュメント人女を集め、慰安所を開設』と書かれていることについて、どのような見解をお持ちでしょうか。」
「三 「土人女」と書かれているのは、現地のインドネシア人女性と思われます。現地のインドネシア女性は、何の目的で集められたのでしょうか。」
「四 バリクパパンの「慰安所」にいた女性は「ナカソネ」という名前を記憶していました。彼女の証言によれば、ナカソネという日本軍幹部が見回りに来た時、「慰安所」の女性たちは部屋に隠れたということです。
「開設された「慰安所」を、当時貴殿が見て回られたことはありますか? また、あるとすれば、その際、何か記憶している事実はありますか。」
「五. 覚えておられることを、どのような些末な事実でも」
これら5項目に対して、中曽根さんが現時点で回答を拒否したということ。
(2007年の外国特派員協会でのないようがすべてと)
(中略)
インドネシア政府は被害者の認定はしておらず、日本の政府から被害者に対して公式な謝罪も賠償もない
金平さん「一緒に取材したヒルデ・ヤンセンさんはオランダ人ジャーナリスト。現地で性暴力被害者の方々の実態をコツコツ現地で調べてきた。女性の被害者たちは、今でも身を隠すように生きている人が多い。そういう人に寄り添って取材をしてきたことが垣間見えた。信頼されている。
僕は日本人の男なんで、被害者の女性に合うことは出来たとしてもああいうふうに心を開いてもらうことは出来なかったと思います。そういう意味では、ヒルデ・ヤンセンさんなしでは、今回の取材は成立しなかった。」
日下部さん「私が台湾で取材したときも、やはり寄り添う若い女性たちの助けなしでは取材できなかったと思うんですね。(支援者の)彼女らは、政治的主張から離れたところでもう一度元慰安婦のおばあさんの声を聞こうとしている。
戦場で、女性はどう扱われたか、できれば苦しみも分かち合いたいという。こういう若い女性は、台湾ではなく、韓国でも増えている。こうした変化(政治的な主張とは離れて、戦時性暴力そのものに向き合う)というのは、我々、覚えておいた方がいいと思うんですよね。
金平さん「この問題は、戦後70年談話でも中心的な論点の1つになっていると内外からみなされている。VTRの中で聞くに堪えない生々しい証言がありましたけれども、歴史に誠実に向き合うことは、自分たちに不都合な事実に目を閉ざさない。耳をふさがないことだと思うんですね。
その意味では、証言した下さった方々の勇気に敬意を表したい気持ちになったということを、申し添えておきたいと思います。
参考:togetter
http://togetter.com/li/852111